我慢しないで

キリスト教の七つの悪徳のひとつ、Avarziaは吝嗇とも、強欲とも訳される。
このふたつが同じものというニュアンスが分からなかった。
しばしば、ケチは物質的な欲望にとらわれないという美徳の面ももっているから。

ネットで調べているとインディアンの寓話が出てきた。こんな話である。

インディアンの暮らす森には猿を捕まえる罠がある。
それは穴の開いたかごであり、中にはバナナが入っている。
猿が手を入れてバナナをつかむと、インディアンが襲い掛かる。
猿は逃げようとするが、バナナを放すことができない。
そしてつかまって命を落としてしまう。

さて、強欲を果てしない物質欲、吝嗇を富を手放すことができない状態と定義しよう。
そして、古い宗教の知恵が教えるように富というもの(あるいは生)は自然の恩恵によって与えられ、本質的に流動的であることを思い起こそう。
さらに、社会が社会である基盤であるところの私有の概念がそれに根源的に対立することを。

先日聞いた話では、ローマの水道橋がただ水を引っ張るためにかも永続的なインフラを建設した理由は、住民を都市から逃げられなくするというためであった。清涼な水をはじめとするライフネットワークは、都市の住人にとって自明な環境=自然となる。そこで、より社会的、抽象的なコードが生存のために重要になる。
貴族、芸能者といった都市にしかいないタイプの人々がその生活基盤を意識しないで生きているということ。

フロイトが言うところでは、便を我慢することを厳しくしつけられた者は、吝嗇家になるという。このタイプは完璧主義者で、画一的パターンを愛する。一見荒唐無稽であるこの理論の正しさは、「富を私有化すること」と「ウンコを我慢すること」の二つに共通する、自然にある流れを押しとどめる、という身振りの中にある。

私たちは、根拠もなく、ウンコが汚いと思っている。
それは単に周りの人間(とりわけ母親)がそれを否定したからという他に理由はない。
だから排便を我慢するというのは社会的な行為なのである。そしてウンコを我慢するという機制を通じて(きちんと便器に残された便を、うまく貯蓄を物質化した(金塊)手柄として褒められることで)社会の富の私有のパターンを認識する。

子供が排便に成功することで、社会的に承認され、成功すると母親たちは蓋然的に考える。そしてフロイトによれば、固定されたパターンに固着する子供に育て上げてしまう。だがパターンそれ自体に明確な確実性はない。「1.2.3」と続くその数列の次に4が来ると思ってしまう。前にそこから安全にバナナを取った箱に、またバナナが補填されていれば、いつまでもそれで生きていけると思っている。

「それは大きな間違いなんだよ」
とそのパターンを裏切る形で自然は顕現する。
いきなり「5」が来たり、バナナがいきなり罠と判明するのが現実だと、私たちは知っている。
簡単な善悪のイメージ化が機能しない複雑な社会で悪を物語るには,それを「意図を予想外の形で裏切るもの」とより抽象的に定義しなければならない。

その悪は、私たちの本質であるのだが(私たちは遅かれ早かれ必ず「悪く」なる)社会がそれを隠蔽する。パターンを保持すること自体がセキュアな生活を作る(備蓄の増減によって運命を占う)という共同体的な倒錯であり、喜びである世界では、固定的パターンがそれ自体で自立する世界を願う。例えば、グローバルな不況の中で、多くの人がより確実な財産の固着化を求めている。しかし、この先30年、倹約に努め、金の延べ棒の総量を増やせば、私たちのうっぷんは晴れるのだろうか。

そこで貯蓄的なタイプとは逆の、ウンコを漏らしてしまうタイプのことを考えることが大事である。ウンコを漏らすタイプというのは、社会的な関係より、身体のシグナルを優先する人のことになる。経験的には、そういう人々が真っ先にいじめの対象になることは誰もが知っている。そういう人をスケープゴートにすることで共同体に属していると感じることができる(悪徳の共有)。

だが、現代に生きている私たちはあらゆる欲望を肯定されている筈なので、そしてそれを基盤に社会を構成する自由も持っている筈なので「ウンコを漏らす自由」を声高に主張することも出来る筈だ。そういうタイプは現実世界では非力であるが、ドラマの世界では主人公になる権利がある。

(社会の面前で率先してウンコを漏らす人物、そういうものはただ、ポルノグラフィーとして容認されている。そういうものを観ると、興奮はしないが、ふと羨ましくなったりしないか)