compassione

川沿いの道を走っていたら、向こうからおばさんが声をかけてきた。
イヤホンを外して聞くと、何か動物が草むらに入っていったという。
高い葦を分けて土手を見ると猫の顔が覗いた。
外貌や逃げた方向を伝えジョギングを再開しようとしたが
「捨て猫かしら、かわいそうじゃない」と言うおばさん。
圧力に屈して土手に降りると、猫が一定の距離を保ってさっきとは逆方向に座っている。
おばさんはそれが視認できずに、川の下の漂流物を猫と勘違いする。
僕は、川向こうの通行人を呼び止めて方向を指してもらう。
そうこうしてる間に見失う。

猫の習性などについての話につき合わされる。
目の前にいる相手が大島弓子だと思いこんで話を聞くことにする。
「おたくで飼ったらいいじゃない」
「猫ってかわいいよ!」というセリフを反復するおばさん。
たまたま目に入った猫を捕獲して家で飼うというソリューションを
通りすがりの青年に期待するおばさん。

ぐだぐだになって別れてジョギングを再開する。橋を折り返して対岸を走ると、
黒っぽいトラ猫が背中を丸めているのが見える。思ったより小柄である。
少し気負いを感じてしまう。ただの風景の一部だった猫に。

おばさんを介して生じたこの感情をcom-passioneというのかもしれない。
僕はいわば感情を学習したわけで、これは演劇、弁論、映画が担うようなパフォーマティブな術の効果なのだ。
エイゼンシュタインならアトラクションというところのものだ。
しかし僕がそう感じるために、どういう条件が必要だったのだろう。