倫理について

放射能の報道について、
まず、「分からない」ということは分かっているわけだから、
「絶対に大丈夫」という言葉をまず疑うべきなのではないか。

水道水の汚染について盛んに報道されたが、放射性物質が南西の風に乗って太平洋沿いの平地に吹き込むことは前日にはドイツの気象台は報じていたし、日本だって分かっていた筈なのに天気予報はいつもと同じように予報をしていた。

これだけ情報が統制される中で、私たちに必要なのは、計測された生データの羅列なのではないか。グリッド状に並べられた、風向き、風速、放射線量等のデータをそれを随時誰もが見れるようにするというのが基本的な情報として与えられるべきである。それがひとつの倫理になると願いたい。

そうすることで研究者は自主的に責任をもってデータを解析、公表することができる。
それは例えば故郷を離れるかどうか葛藤する人たちの判断の一助になるだろうし、移転を考える雇用主の意思決定の客観的な指標にもなると思う。だが現在進行中なのはその基準値を恣意的に変えようということで、
これは結局、「誰も責任を取らない形で現状維持して行きましょう」という日本人に典型的な破滅パターンである。

今一番有用な情報は、天気予報である。
放射性物質は風まかせに、流体力学的な流れに沿って拡散していく。
同心円状に定義できるものではない。
気象台のスーパーコンピュータはこういう事態にこそその力を発揮すると思うのだが、
私たちには予測どころか、現在の三時間置きのすでに編集された情報しか公表されない。
本当に日本は民主的な国家なのだろうかと疑いたくもなる。

もうひとつ違和感があるのは「こういう時だからこそ粛々と経済活動に励むことが大事である」という論調である。
東北で出荷された野菜が風評被害を受けている等々の経済的損失が報じられているが、一方でそれらは安全基準を超えることが公表されていて、結局メディアは何がいいたいのか分からない状態になっている。

人間によって細かく分けられた輪郭線のようなもの、いわば生活の前提が崩れ去っていくのを私たちは見たのだから、
「あえて今までどうりに働く」というのは、人間は壊れものを作るしかないのだ、という認識ではないのか。
経済活動の場は生態系や地殻変動、気象変動などのレイヤーのひとつでしかなく、それらは相互依存的である。

線引きを間違っていたのではないのか、という懐疑こそが必要である。
その線引きの仕方で、今回の地震の意味の受けとめ方が違ってくる。
「より安全な原発を作るための試練」と受け止めるか、「原発はやはり無理なんだ」と受け止めるか。
このままだと前者のシナリオを選択しそうだが。経済的な原理からすれば、そうだろう。

一番の被害者は、不条理に故郷を汚染され、見知らぬ土地で第二の人生を歩むことを強いられた人々で、政府が公布した非難区域を考えると、相当数の人が全く新たな人生の分岐点にいることを想像してみる。
私たちも粛々と働いていてもそういう状況になり得るということ、その人たちと共に生きる可能性、
分かりやすく言えば「隣人愛」みたいなものがこれからのもうひとつの倫理になればと思う。

具体的には自治体や個人的な縁故によって能動的に受け入れが始まり、
現場ではさまざまなギャップから差別的なことも起こるだろう。
そういうことを全て受け入れて共に歩む、小さな小さな物語がそこここで生まれていく。