ことば


おざなりになっていたイタリア語のお勉強を再開した。
日本語を聞くようにただ漫然と聞いているだけでは頭に入ってこない。
なんというか一つのフレーズにヤマがある。言い換えれば文が完成に向かって運動している。ピリオドを打ったとき、初めて文が完成し、安定する。
主語、述語、目的語が関係詞等で修飾されているとき、いわば宙吊り状態でこらえながら解決に向かうのを待つのがイタリア語の正しい聞き方、しゃべり方なのだろう。
印欧語のなかでもイタリア語は主語の文全体への統制が強くて、自動詞(SV)と他動詞(SVO)で違う助動詞を使うほどである。
この不安=>解消というパターンはドミナント保持のような緊張感がある。
いわゆる音楽というものが向こうの人の文化にとって言語と同等の創造物(artifact)として捉えられているのはこのパターンの相似にあるのだと思う。そしてそれは神学的な世界観そのものでもあるのだろう。

人間の作る文がピリオドで完成するように、世界の終わりは完成である。
現在の世界は常に未完の、しかし確実に完成にむけ更新される。それは神の意思によるものだが、私たちにはその意思を知ることが出来ない。
というようなことを考えながらバチカンのミケランジェロを見たら、感慨深いかもしれない。

さて、印欧語が基本的にSVOのシンタックスをもつなら日本語はどうかというと、
「日本語に主語はいらない」によると基本文は主題+述語であり、この「主題」は助詞「は」によって仲立ちされる。たとえば

春はあけぼの。

そしてこの主題(argument)は文を超えて暗示的に継承される。

我輩は猫である。
名前はまだ無い。
どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。
(...)

「主題:我輩」(主語ではない)についてだらだらと頭に負担をかけずに書いていけるのである。
主語が無い代わりに空気みたいな「場」が話題の中心になって対話が成立しているというわけで、これもまたイタリア語のケースのように
私たちの世界観に多分に影響している筈で、とりわけ「未来」というもののあり方について彼らと遠く隔たっていて、いろいろ文句も出てくるのだが、次に譲るとして
今はこの「だらだらした推移」に注目しないといけない。

主題+述語と言っても、この二つに統語的な関係があるわけでもなく、あくまで文脈的なものであり、なんでも放り込める。
それで、シンボルよりもイメージに近い、コラージュ的な文を作ることができる。

そして会話の中ではどこで終わるか不明瞭でプレーンなので、わざわざ「です」「だ」みたいな語尾をつける。(be動詞が「です」に相当するとかいう教師の説明を、さすがに当時の自分でも納得できなかった)
意味の連なりは、滲み出すように浮かんでは消えていく。そのときに、何の制約も感じていない。

それで、行間というものの感じ方が全く違うことにもなる。
イタリア語は作り終えて休憩する感じ。日本語は沈黙のなかに、次の言葉のきれはしを待っている感じ。
リテラルに現れた言葉はすでに運動しない。そのかわり「主題」が新しい言葉を生む。
これは多分に無意識的な領域に橋をかけていて、意識的に定位しようとしたのが季語とか枕詞とかになるのだろう。

それで、イタリア語と日本語を話すバイリンガルの人は分裂してるのか、というとそんなことも無く、2つの統語のフィールドにお互いの単語を放り込むことに長けているということになる。前者は、なんでも操作できる硬いものに変えてしまうし、後者はなんでもイメージに還元してしまう。
そこを往復する「言葉」自体は形態的には不変だが、より抽象的な場では、運動が前景化し、イメージ自体は薄まっていかざるを得ない。